戻る
|
ご本尊 |
     ☆ 大本山建長寺 蕎麦切奉納
平成30年11月25日、「建長まつり」が開催されました。 仏殿に座す本尊地蔵菩薩にけんちん汁と蕎麦切が奉納され、併せて建長寺由緒の御詠歌が厳かに奉納されました。 奉納の儀の後、境内で建長寺発祥のけんちん汁5000食と、江戸ソバリエ神奈川の会(理事長:木下善衛)による蕎麦切1000食が振る舞われました。 | ||
                    ♯ 建長寺とけんちん汁
鎌倉の巨福山建長寺は臨済宗建長寺派の大本山です。創建は1253年、五代執権北条時頼の開基、開山は蘭渓道隆(1213~78)。 境内には総門・山門・仏殿・法堂がほぼ一直線に並ぶ禅宗様式の伽藍が配置されています。本尊は地蔵菩薩像(伝:応行作)。 仏様の身長は一丈六尺(約4.9m)とされていることから仏像も丈六を基準としています。坐像はその半分の約八尺(2.4m)。後代のお地蔵さんは子供のように可愛らしいお姿ですが、鎌倉時代の地蔵菩薩は大きいのが一般的です。だから建長寺の本尊地蔵菩薩は威厳があります。また仏殿前のビャクシンは開山蘭渓道隆が南宋から持参して植えた木と伝えられています。 有名な《けんちん汁》は当寺由来といわれています。もとも《巻繊 ケンチン》は中国の禅料理にありますが、日本のものは野菜の残り物を利用するために考えられたのが始まりです。焼豆腐や野菜類を清汁仕立てで煮込み、好みにより味噌を加えることもあります。寒い日に頂く《けんちん汁》は心身が温まります。 | |||
けんちん汁と蕎麦切 |
ご詠歌奉納 |
そば振舞 |
戻る
|
☆ 第4回 天目山栖雲寺 蕎麦切奉納 |
平成30年11月10日、蕎麦切発祥伝説をもつ臨済宗建長寺派天目山栖雲寺(三十三世青柳真元・甲州市大和町木賊)にて、江戸ソバリエ神奈川の会(理事長:木下善衛)が蕎麦切奉納を行いました。 まず伝灯庵に座す本尊釈迦如来様(県指定文化財)・普応国師様(重要文化財)・業海本浄様(県指定文化財)に玄蕎麦を奉納、そして本堂の摩利支天様に蕎麦切を奉納。続いて9名の和尚様によって蕎麦奉納大般若の祈祷が行われました。 庫裡に設けられた「囲炉裏ノ茶席」では、青柳住職手作りの精進菓子と抹茶が、別館広間では江戸ソバリエ神奈川の会有志によって新蕎麦300食が振る舞われました。 また、この日はJRのハイキング+周辺の蕎麦屋の食べ比べ企画が催されたため、栖雲寺にも多数の人が訪れ賑わいました。 蕎麦切奉納は来年も11月の第二土曜日または日曜日に開催の予定。 | |
                    ♯ 天目山栖雲寺-蕎麦切発祥伝説
甲州天目山栖雲寺は、元朝第4~6代皇帝のころ、杭州天目山の中峰明本に印可を受け、帰国した業海本浄によって1348年に創建されました。当山は蕎麦切発祥伝説の地としても知られていますが、その元となったのは、尾張藩士の天野信景が残した雑識集『塩尻』の宝永年間(1704~11)の条に「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」と記述してあることに因ります。 しかし、当寺には元由来の「十字架棒持マニ像」や天目茶碗など多数の寺宝があることから、開山の業海本浄が中国元代の杭州で蕎麦打ちを学んで伝えた可能性もあることが指摘されています。                     |
戻る
|
☆ 第7回 深大寺 献そば式
平成30年7月20日、蕎麦伝説で名高い東京都調布市深大寺(住職:張堂完俊)において、皆様に暑い夏 を乗り切ってもらうことを願い第7回「深大寺 献そば式」が実施されました。                     今年もお練り道中の山門はほうずきで飾られていました。                                       | |
 そば守観音様での献納式 |  本堂へ献納された蕎麦切り |
♯ 蕎麦守観音縁起
上野寛永寺の第5世公弁法親王様が「他の蕎麦とことなって風味がいい」とおっしゃってから深大寺蕎麦が 名高くなった、と江戸時代の『蕎麦全書』(日新舎友蕎麦子著、1751年刊)に記されています。また、長谷川 雪旦が挿絵を描き、江戸神田の町名主斎藤氏が天保年間(1834年と1836年)に刊行した『江戸名所図会』にも 深大寺蕎麦はとり上げられています。 こうした伝統の深大寺蕎麦のますますの発展を発願して、「門前」( 調布市深大寺元町5-13-5)などの地元の蕎麦屋さんが1963年に「蕎麦守観音」を深大寺(調布市深大寺元町 5-15-1)境内に建立し、毎年秋には深大寺蕎麦の奉納が行われるようになりました。                      |
|
♯ 深大寺文学散歩
「武蔵野の水と緑と寺と蕎麦」といわれる深大寺には、多くの文人たちが訪れ優れた作品を残しています。 泉鏡花(戯曲「深沙大王」)、サトウハチロー(詩)、亀井勝一郎(随筆「晩秋の深大寺」)、永井龍男(随筆「身辺 すごろく」)、松本清張(小説「波の塔」)、三島由紀夫(小説「鏡子の家」)など。                         |
戻る
|
       
☆日秀将門神社 蕎麦奉納
平成30年7月8日、千葉県我孫子市日秀(ひびり)にある地元「将門神社」で例祭「みやなぎ」が開催され、同地に所在する我孫子そばの会蕎麦打ち道場「将門道場」(星崎輝夫会長:江戸ソバリエ・ルシック)による蕎麦奉納が会員の健康、道場の発展と五穀豊穣を祈念して行われました。 氏子の皆様に見守られるなか女性の5会員(山中・佐藤・森・大澤・北川)が協力して蕎麦を打ち、三方に乗せた蕎麦を女性の宮司のもと、奉納致しました。 宮司より授与されたお神札と勝守は蕎麦打ち技術の向上を目指す会員にとって心強い賜り物でした。また、奉納された蕎麦は祭事後、直会の宴で振舞われました。                      |
||
♯ 日秀将門神社
将門が少年のころ過したと伝えられる旧日秀村には、多くの伝説が残されています。 940年、将門が戦没す るや、騎馬に乗ったその霊が手賀沼を渡り、湖畔の丘に登って、昇天する朝日を拝んだとも伝えられ、それ が日秀の地名の起こりだともいわれています。                                                      そんな日秀地区の氏子たちは、今も将門神社を大切に守り続けています。                               ちなみに、千代田区の神田明神や、坂東市の国王神社の祭神も平将門です。                              |
戻る
|
☆ 神田明神 第8回江戸蕎麦奉納
平成27年5月9日、神田明神(宮司:大鳥居 信史)の三神 - 将門様(江戸の産土神)、大国様(農業の神)、 恵比寿様(漁業の神) - に江戸蕎麦を奉納させていただきました。                                  本年はご遷座400年奉祝する大祭。蕎麦奉納行事予告が神田明神のホームページに掲出されました。    | ||
♯ 将門伝説・神田編
940年に東国で反乱を起こして敗れ、討取られた将門の首は京に運ばれましたが、 首は胴体を求めて東国へ と飛び立ったそうです。そして途中の武蔵国芝崎で力つき落ちた、と云い伝えられています。そこが将門の 首塚(千代田区大手町1-2-1)です。その首塚を1616年に現在地に移して、 神田明神(千代田区外神田2-16-2) となりました。それからの神田明神は将門の反骨精神と悲運が江戸っ子気質とあったのか、江戸の総鎮守と して敬愛されるようになりました。                                                                 | ||
行列直前 |
昇殿参拝 |
戻る
|
☆ 国王神社 第6回蕎麦打ち奉納
平成26年11月9日、平将門が祀られている茨城県坂東市の国王神社(宮司:飯塚美貴雄)にて「蕎麦 打ち奉納」を執り行いました。蕎麦粉はブランド蕎麦として知られる茨城県産「常陸秋そば」を使用 しました。坂東市では、第41回将門祭り、第24回いわい将門ハーフマラソン大会も開催されました。 | |
  国王神社 |   奉納蕎麦 |
♯ 将門伝説・岩井編
坂東市岩井は平将門の基地ともいえる石井営所があった地で、最後には藤原秀郷らに討たれた場所です。   将門の首は京へ運ばれましたが、遺体は神田山延命院(坂東市神田山715)に隠し埋められました。 その後 972年、 将門33回忌にあたり将門の三女如蔵尼が霊木を得て父の影像を刻んで祀ったのが、現在の国王神社 (坂東市岩井951)です。                                                                             |
戻る
|
☆ 第17回蕎麦喰地蔵講
平成25年11月30日、蕎麦伝説で名高い東京都練馬区九品院(住職:藤木雅雄)において「蕎麦喰地蔵 講」が開催されました。藤木雅雄住職の供養法要、サラザン・カルテットの弦楽四重奏など。主催は 江戸ソバリエ「蕎麦喰地蔵講世話人会」(世話人代表:金井政弘)。                              | ||
  蕎麦喰地蔵 |   法話 |   奉納蕎麦 |
♯ 蕎麦喰地蔵縁起
ある年の秋のことです。浅草広小路にある「尾張屋」という蕎麦屋に一人の品のいいお坊さんが見えるよう になりました。お坊さんは蕎麦を食べ終わると、合掌をして丁寧にお礼をして帰っていきます。それが毎日 続くので、蕎麦屋の亭主は「ただのお坊さんではあるまい」と思って、跡をつけました。すると、お坊さん は誓願寺の塔頭の一つである西慶院の地蔵堂の前で、スッと消えてしまったのです。亭主は不思議に思いな がら帰りましたが、お坊さんはその夜の夢枕に立たれ、「日ごろからお前に受けた蕎麦の供養に報いて、尾 張屋一家の人々を悪疫から護ってやろう」と言って姿を消しました。畏れ入った尾張屋は翌日から地蔵尊に 蕎麦を供え続けました。そうしているうちに天保8年(1837)に疫病が江戸中に大流行しましたが、尾張屋一家 だけは病魔から免れることができたのです。そんなことがあってから蕎麦喰地蔵尊の名は江戸中に広まった というわけです。そんな西慶院は故あって、明治の末に誓願寺の塔頭の一つである九品院と合併することに なりましたので、そのときから蕎麦喰地蔵尊も九品院が供養することになったのです。                   蕎麦喰地蔵尊は縁あって、練馬区練馬4-25-1にお在します。また「尾張屋」(台東区浅草1-1-3)は今も蕎麦 屋を営んでいます。なお、この蕎麦民話は落語家の三遊亭圓窓師匠が落語にされて口演されています。      |
戻る
|
☆ 澤蔵司稲荷 創作落語「お蕎麦の稲荷」奉納
平成18年5月7日、お蕎麦の稲荷として知られる慈眼院澤蔵司稲荷 (住職:遠田弘賢)の石垣解体修服 工事竣工式において、三遊亭圓窓師匠(江戸ソバリエシンポジウム講師)の創作落語「お蕎麦の稲荷」 が初口演されました。当日の次第は次の通り。一、特別大護摩祈祷、二、江戸消防第四区木遣親声会 の木遣奉納、三、江戸ソバリエ協会ほしひかるによる伝説「お蕎麦の稲荷」解説、三遊亭圓窓師匠の 創作落語「お蕎麦の稲荷」奉納、四、記念植樹。                                             |
♯ お蕎麦の稲荷 澤蔵司稲荷縁起
1618年4月7日のこと、小石川伝通院の廓山上人のもとに一人の修行僧が入門してきました。名を澤蔵司とい い、僅か三年にして一切浄土の奥義を究めたそうです。然るに1620年5月7日のこと、澤蔵司は廓山上人と院 の学寮主、極山和尚の夢の中に現れて「私は千代田城内の稲荷大明神なり。ここに浄土の法味をうけて長年 の大望が達せられた。今から元の神に帰るが、当山を永く守護するから、一社を建てて稲荷大明神を祀りな さい」と言う。さっそく廓山上人は慈眼院を建立しました。とあるころ、伝通院の門前に蕎麦屋がありまし た。澤蔵司は、そこで毎晩のようにお蕎麦を食されるのです。主人もまたよくその徳を慕い、あるときから 社前に蕎麦を献じるようになりました。この伝説を今も守り続けている蕎麦屋があります。「萬盛」(文京 区春日2-24-15)です。ご主人は毎日その日一番の蕎麦を慈眼院(文京区小石川3-17-12)の澤蔵司稲荷にお供 えしています。                                                                                    |
戻る
|