深大寺蕎麦 | |
謂われ | 江戸後期に発刊された『江戸名所図会』は、神田の名主であった齋藤幸雄、幸孝、幸成の三代にわたって書き継がれた書だという。 蕎麦関連としては、有名な「深大寺蕎麦」が掲載されているが、これは1815. 16年ごろ、絵師・長谷川雪旦(1778~1848)と齊藤幸孝(1772~1818)が取材のため、深大寺を訪れたとき描いたと想われる。 絵の想定場所:深大寺の接待茶屋 絵の想定人物:深大寺77世覚深・長谷川雪旦・齊藤幸孝・僧 江戸後期に発刊された『江戸名所図会』に描かれている「深大寺蕎麦」の場面の再現を試みた。 撮影場所:深大寺の茶室にて 登場人物:深大寺77世覚深(写真88世張堂完俊)・長谷川雪旦(同ほしひかる) ・齊藤幸孝(同浅田修平)・僧(同林田堯瞬) 再現料理:椎茸、里芋、大根、牛蒡、雁擬、蒲鉾の煮付と山女の唐揚と推定し、蕎麦切と料理は 蕎麦屋「門前」が担当した。 |
企 画 | 深大寺、「門前」、江戸ソバリエ協会 |
協 力 | 吉川真理(江戸ソバリエ) 、村上卓司(撮影) |
参 考 | ☆日新舎友蕎子著『蕎麦全書』(ハート出版)
☆齋藤幸雄・幸孝・幸成著・長谷川雪旦絵『江戸名所図会』(筑摩書房) ☆毎日新聞.平24年11月15日 (岡礼子記者) ☆ほしひかる筆「深大寺蕎麦」(「日本そば新聞」平成26年10月号~) |
妙興寺蕎麦 | |
謂われ | 愛知県一宮市にある妙興寺禅林の沙門恵順による「寺方蕎麦覚書」1608年(慶長13年)6月21日に、その調理法が記されていたものを伊藤徳義氏が再現。
特長は、大根を細く切ったものを蕎麦切と和えているところと、つゆの出汁を大豆でとっているところにある。この大根と麺の組合せ、ならびに大豆の料理法は、共に留学僧たちが中国より持込んだとされているところから、当蕎麦も往古の寺房料理(寺方蕎麦)の要素を今に伝えているものと思われる。 |
商 品 | 浅草「長浦」 |
参 考 | ☆伊藤汎著『日本麺類誕生記 つるつる物語』(築地書館)
☆伊藤汎筆「麺類ではじまるわが国の粉飾史」(『FOOD CULTURE』No.16~20) ☆ほしひかる筆「蕎麦夜噺第十一夜 尾張一宮妙興寺 恵順の蕎麦切」(『日本そば新聞』) |
しっぽく | |
謂われ | 最後の将軍・徳川慶喜公は、公の十男で勝海舟家の養子となった勝精と伊代夫人が麻布「更科」の《しっぽく蕎麦》をお土産代りに持参したので、それを食されたという。
現在の「総本家更科堀井」の《しっぽく》は毎年大晦日の12月31日だけの特別品となっていて、三つ葉、筍、麩、湯葉、海苔、かし葉、蒲鉾が載っている。 |
商 品 | 元麻布「総本家更科堀井」 |
参 考 | ☆遠藤幸威著『女聞き書き 徳川慶喜残照』(朝日文庫)
☆江戸ソバリエ協会編「江戸蕎麦めぐり。」(幹書房) ☆ほしひかる筆「暖簾めぐり⑥」(『蕎麦春秋』vol.19) ☆ほしひかる筆「文京蕎麦談義④」(『空』52号) ☆ほしひかる筆「怪談 慶喜残月」(「日本そば新聞」平成25年10.11.12月号) |
さらしな | |
謂われ | 1789年布屋清右衛門(~1793)が、上総国飯野藩七代目藩主保科越前守正率(1752~1813)の支援を得て、麻布永坂の三田稲荷門前で「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」を創業したと伝えられている。
「布屋太兵衛」の蕎麦は白っぽく、細切りで、喉越しがよく、《さらしな蕎麦》と呼ばれたという。以来、これが江戸の蕎麦の特色になったとされている。現在の当主は九代目堀井良教さん。 なお、保科家は1648年以来上総国飯野藩の領主であった。 その江戸屋敷が麻布善福寺の門前にあったことから「更科」との出会が生まれた。 |
商 品 | 元麻布「総本家更科堀井」 |
参 考 | ☆江戸ソバリエ協会編「江戸蕎麦めぐり。」(幹書房)(1636年)
☆ほしひかる筆「暖簾めぐり⑥」(『蕎麦春秋』vol.19) |
醤油汁 | |
醤油汁 | 『中山日録』には「つゆは大根の絞汁に少量の醤」、また『和漢三才図会』には、「蕎麦切は醤油汁を用いて食べる」とある。
したがって、江戸のつゆが完成する前の江戸初期は、「古式蕎麦」店に見るような醤油と辛味大根の絞汁を和せて、蕎麦汁としていたのだろう。 |
再現商品 | 湯島「古式蕎麦」 |
参 考 | ☆堀杏庵著『中山日録』(1636年)
☆寺島良安著『和漢三才図会』(1712年ごろ完成) |
元禄蕎麦切 | |
元禄蕎麦切 | |
企 画 | 板垣一寿(新発田市「一寿」店主)、ほしひかる(江戸ソバリエ協会) |
再現商品 | 新発田市「一寿」 |
協 力 | 畑貞則(江戸ソバリエ・ルシック、江戸ソバリエ蕎麦喰地蔵尊蕎麦打ち会) |
参 考 | ☆人見必大著『本朝食鑑』(東洋文庫)
☆『料理物語』(教育社) ☆ほしひかる著「元禄武士道」(「日本そば新聞」) ☆山本おさむ作画「そばもん⑫」(小学館) ☆ほしひかる出演NHK-Eテレ『にっぽんの芸能』「玉手箱-そば」(平成25年12月6日放映) |
しっぽく蕎麦 | |
しっぽく蕎麦 | 明治のころ、文京区春日2-8-7に徳川慶喜公のお屋敷があった。
ある日のこと、慶喜公の十男で勝海舟家の養子となった勝精と伊代夫人が、麻布「更科」の《しっぽく蕎麦》をお土産代りに持参した。 《しっぽく蕎麦》というのは、具がたくさん載ったかけ蕎麦のこと。 記録によれば、慶喜公が食べた《しっぽく蕎麦》は、松茸、椎茸、蒲鉾、半熟卵、野菜などが載っていたという。 たまたま2013年が慶喜公没後百年ということから、それを機に再現した。 |
企 画 | ほしひかる(江戸ソバリエ協会) |
再 現 | 駒込「玉江」店主 中村進 |
協 力 | 文京区そば講座 講師 (寺西恭子・マダム節子・木村佐江子) |
参 考 | ☆遠藤幸威著『女聞き書き 徳川慶喜残照』(朝日文庫)
☆ほしひかる著「怪談 慶喜残月」(『日本そば新聞』) ☆ほしひかる著「江戸そばの歴史」(『日本橋』平成25年5月号) ☆ほしひかる講演「江戸蕎麦は日本橋から始まった」(平成25年11月9日『第5回 豊年萬福塾』) ☆ほしひかる著『文京蕎麦談義』(『空』平成26年9月号) |
鴨南ばん | |
謂われ | 1810年頃、馬喰町1丁目鞍掛橋の近くの「笹屋」の店主治兵衛が考案した。
当時日本橋界隈には水鳥を扱う多くの鳥問屋があった。そのため蕎麦に鴨を使うことを考えたと思われる。 →2代目伊勢屋籐七→3代目川辺籐吉→4代目杉山喜代太郎→5代目桑原光二→6代目桑原敏雄→7代目桑原芳晴(現在の湘南台へ移転)→8代目小林敦広 (敬称略) 【現在の鞍掛橋付近】 【「元祖 鴨南ばん」の鴨南ばん】 |
協 力 | 「元祖 鴨南ばん」藤沢市湘南台2-22-17 |
参 考 | ☆「元祖 鴨南ばん」店主のお話
☆ほしひかる著「江戸そばの歴史」(月刊『日本橋』平成25年5月号) ☆ほしひかる講演「江戸蕎麦は日本橋から始まった」(平成25年11月9日『第5回 豊年萬福塾』) |
天保そば | |
謂われ | 平成11年、現在では帰還困難地区となっている福島原発の地元、大熊町の旧家に天保時代から飢饉用に保存されていた米俵のなかに入っていた蕎麦の実を、山形の蕎麦関連業者が発芽・結実させ、原種保存が行われている蕎麦。
品種は不明だが、天保時代(1831-1845)の蕎麦とは、かくも素朴な味わいであったかと思いを馳せることが出来る。
毎年6月頃、栽培を行っている「幻の山形天保そば保存会」会員店において提供されている。 |
商 品 | 「幻の山形天保そば保存会」会員店 |
協 力 | そば食文化を考える会(松本一夫) |
参 考 | 「幻の山形天保そば保存会」
☆山本おさむ作画「そばもん⑨」(小学館) |
おかめ蕎麦 | |
謂われ | 幕末、上野不忍池に近い池之端七軒町のはずれにあった「太田屋」が創案したと伝えられる。
当初は根津の郭客が多く立ち寄ったが、明治21年に郭が深川洲崎へ移転してからは郭客は少なくなった。
しかしその後も「太田屋」は《おかめ蕎麦》を名物として商っていた。その太田屋は今はない。 「太田屋」の《おかめ蕎麦》は、湯葉を蝶型に結んで目に象り、鼻は松茸または三つ葉、蒲鉾を左右から寄せ合って頬に、口は椎茸として、三ツ葉をあしらえば、蓋を取ったときにおかめの面が現れるという趣向。 なお、「砂場」はもともと大坂にあったという。 そのルーツは大坂城建築現場の砂置場にあり、そこで工事に従事する者たちの賄飯を担当していたと思われる。 |
商 品 | 「虎ノ門大坂屋砂場」港区虎ノ門3-11-13
具は湯葉、三ツ葉、蒲鉾、椎茸、鶉の卵、玉子焼、筍、麩からなっている。 |
参 考 | ☆植原路郎著『実用そば辞典』東京文献センター(昭和44年刊)
☆ほしひかる出演NHK-Eテレ『にっぽんの芸能』「玉手箱-そば」(平成25年12月6日放映) |
あられ蕎麦 | |
謂われ |
ハマグリの一種である「馬鹿貝(バカガイ)」の身は、産地に因み、粋に「青柳」とも呼ばれる。主な産地は江戸川の河口から千葉木更津あたりにかけて。だからこそ、江戸前の食材として鮨、天麩羅の材料にされてきた。
江戸の蕎麦屋では、貝柱を細かく切って、浅草海苔を敷いた《かけ蕎麦》の上に散らした。晩秋から早春にかけての新海苔の頃の季節物。1825年の『今様職人尽歌合』に見えるところから、江戸末期には食べられていた。今は老舗の蕎麦屋限定、時価で提供される。 |
参 考 | ☆『今様職人尽歌合』(東京国立博物館)
☆ほしひかる彩蕎庵セミナー「江戸蕎麦とは」(平成30年5月)で発表 |
穴子南ばん | |
謂われ |
焼いた穴子を《かけ蕎麦》の上に置き、短冊に切った葱を添える。
古来、羽田沖は良質な穴子の漁場とされ、旬は七月頃から秋にかけて。 1848年の『酒飯手引草』に江戸馬喰町一丁目の「伊勢屋藤七」が売り出しているとの記録がある。今は「かんだやぶ」のお家芸。 なお、明治以来、京都の名物となっている《にしん蕎麦》は、元々は、かんだやぶの《穴子南ばん》をヒントに考案されたという。 |
参 考 | ☆『江戸名物酒飯手引草』(東京国立博物館)
☆ほしひかる彩蕎庵セミナー「江戸蕎麦とは」(平成30年5月)で発表 |
趣味のとろそば (とろろそば) | |
謂われ |
「江戸蕎麦は趣味の蕎麦」といわれることがある。
それをもって「だから、江戸蕎麦は少量なのだ」と堂々と唱えているのが「砂場」である。 なかでも、「巴町砂場」はその名が1815年の史料には出てくる老舗中の老舗、名物《趣味のとろそば》は広く知れわたっていた。 《趣味のとろそば》とは、擂鉢でよく擂った大和芋に同量の辛汁を加え、最後に卵の黄身だけを入れた汁で《ざる蕎麦》をたぐるもの。 ※上記文章を過去形で書いたが、「巴町砂場」は2017年6月をもって200年(第17代)の歴史に幕を閉じた。江戸ソバリエとしては《趣味のとろそば》のことを記録に留めるのが任務と考え、ここに記した次第である。 |
参 考 | ☆井蛙子(萩原長昭)『そばやの湯筒』
☆ほしひかる「暖簾めぐり⑫砂場」(『蕎麦春秋』vol.25) ☆閉店の挨拶状 |