江戸ソバリエの心

市民(町民)という層が日本の史上で明確に形成されたのは、約400年前の江戸開府以降のことでした。

それまでは乱世が続き、武士すなわち力の強い者が社会を牛耳っていたのです。しかし、平和な時代になりますと乱暴者は時代遅れとなり、経済、生活、文化面に強い人たちが活躍する社会へと転換していきました。そこへ登場してきたのが町人たちでした。

振り返れば、日本ではもののあわれ幽玄一所懸命道理など日本独自の美意識や日本人気質が生まれましたが、それらはすべて貴族や武士のものでありました。

これに対し、台頭してきた町人たちは、自分自身の規範を模索し、作り上げていきました。

たとえば、幡随院長兵衛という町奴は武士に対して義侠という町人気質をうちたてました。あるいは、江戸の商人たちは大阪商人に負けないなる道を拓き、辰巳の芸者たちは吉原遊女と張り合ってという美意識を生み出しました。

ここに共通する魂は、町人たちの自律精神でした。

また、芸術の分野においては、歌舞伎や浮世絵が幕府の制圧を跳ね返して町人たちの中で発展していきました。

一方、江戸の食においては、大陸から九州に伝来し、そして都から木曽路、甲州路を経て江戸に入った「蕎麦切り(現在の蕎麦)」が、江戸町民の中で根付いていって花開き、ついには「蕎麦は江戸の水に合う」とまで言われるようになりました。

蕎麦の語源は、「側」、「峙つ(そばだつ)」のソバだと言います。すなわち中央に位置していないとか、非主流・反主流の意です。たしかに、日本の農業において「五穀豊穣」を言うとき、蕎麦は五穀(米、麦、豆、粟、稗または黍)のうちに入っていません。文字通り、蕎麦は非主流的な食べ物です。自律心に満ちた江戸っ子が蕎麦を好んだ理由がここにあるのかもしれません。

さて、私たちの目的は、江戸の蕎麦に関する総合的な知識を深め、江戸蕎麦の通になることでありますが、それ以上に江戸の蕎麦を考えることによって、もう一度日本の食文化や私たちが持っている市民の自律的な魂について見つめ直すことでもあります。

そのうえで、皆様方におかれましては、ご自分流の「江戸ソバリエの心」を確立して粋な江戸蕎麦の通になっていただければ幸いです。


戻る