登録・古民家蕎麦屋

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大都会では、ますます超高層ビルが増えてゆき、食事処はみんなビルの中。
昔から「料理が美味しいことは当たり前」。その上で、「食器は料理の衣装、建物はそのまた衣装」といわれるが、時代の流れから戦前の貴重な建物は少なくなってゆく。


そこで当協会では、せめて、古い建物のお蕎麦屋さんだけでも大切しようという気持から、古民家風お蕎麦屋さんの風景を記録に遺すことにいたしました。


神田まつや(東京都千代田区神田須田町1-13)




 明治17年創業。関東大震災(大正14年)に移築された現在の店舗は奇跡的に空襲による戦火を免れ、平成12年に東京都の歴史的建造物に選定された。

大きな提灯、千本格子に一枚看板、入口の欄間は今となっては珍しい塗籠めの下地窓まで付いた典型的な昔の蕎麦屋建築である。

お蕎麦は江戸の味を引継いでいるばかりか、合席、予約なしなど随所にまつや流が見られ、そこがまた人気でもある。

「一度『まつや』に行って、お蕎麦を手繰ってみたい。」

そんな人たちが、今日も並んで待っているその様は、もう須田町の街の風景になっている。

お話:「神田まつや」店主小高登志様

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


無庵(東京都立川市曙町1-28-5)




 立川駅北口から駅前繁華街の裏手の路地を入ると古くからの住宅地の一角に、「無庵」がある。。
当店は、戦後間もない時に父親が建てた実家を現在の店主竹内洋介さんが譲り受け、平成元年に改築して、創業した。
建物は昭和調、大きな暖簾をくぐると店内は純和風である。渋い色の柱、瓦を埋め込んだモダンな壁に懐かしい土壁、木のテーブルと椅子もよく合っている。さらには和の照明が心穏やかにしてくれる。
店の一角には大きなスピーカー。店主手作りのステレオだ。反対側にはジャズのLP盤がぎっしり。自宅も合わせれば3000枚は蔵してるという。
古民家でジャズを聞きながら蕎麦懐石を頂ける店、この上もない贅沢さである。

お話:「無庵」店主竹内洋介様

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会、『蕎麦春秋』、他


さわ田茶家(八千代市萱田町595)




 「さわ田茶家」の建物は、元は昭和8年建造の東久邇稔彦の市川市真間の別邸であった。東久邇稔彦は昭和20年8月から同年10月まで、戦後初の内閣すなわち第43代内閣総理大臣を務めた人物として知られている。
その別邸を澤田家が譲り受けることになった。日ごろから八千代市のために何かやれることはないかと思っていた澤田さんの元へ、譲ってもよいという話が飛び込んできたからだ。こうした縁をもって東久邇邸は、昭和39年に現在地へ移築された。
現在の敷地は約300坪。建物は76坪の入母屋造。1階は黒光りの大黒柱と天井の太い梁、正目の板張と漆喰の土壁があり、2階は書院造の床の間と欄の間になっている。庭の池には鯉が泳ぎ、旧東久邇邸の1階2階とも今は全て客席になっている。 
旧東久邇邸である「さわ田茶家」は、今や八千代市の看板となった。
昭和初期の香気を薬味にお蕎麦を啜り、また料理を頂く。これぞ古民家蕎麦屋を愛する者の醍醐味だ。

「さわ田茶家」初代店主澤田政道様

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


手打そば 一茶庵(市川市南八幡3-5-16)




 JR総武線本八幡駅前に隠れるようにして佇んでいる。お店の創業は昭和34年、「足利一茶庵」の片倉康雄翁の薫陶をうけた創業主の山寺芳男(故人)が現在地にあった自宅を改造して開いたというから、建物は築60年にちかいだろう。そのあと二代目は山寺常三(故人)、そして現在は三代目として山寺紀久夫氏が継いでいるが、彼は(社)日本ソムリエ協会認定のソムリエの資格を取得され、新しい道を模索しているという。

そもそも一帯の歴史は古く、九世紀末に京の石清水八幡宮の別宮として葛飾八幡宮が創建されたことによる。そして元禄年間には水戸佐倉道の宿駅がおかれ、八幡宿と呼ばれるようになったが、今の駅前からそれは想像もできない。だが、当「一茶庵」の門構え、そして屋敷内に入って座っていると、そのころの空気が今もなお漂い続けていることを感じる。

なお、当店を巣立った弟子たちの店「禅味会」(二十数店)は蕎麦好きの間では広く知られている。

お話:「一茶庵」三代目山寺紀久夫さん

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


丹三郎屋敷(西多摩郡奥多摩町丹三郎260)




 青梅線古里駅から徒歩8分の吉野街道沿いに巨大な長屋門(都選定歴史的建造物)を構えた茅葺屋根入母屋造りの農家がある。それが江戸中期の名主原島家の屋敷である。長屋門は門の両側に農具や作男のための部屋が連なる形式で、多摩における茅葺の代表例として江戸時代の名主屋敷の姿を特徴づけて現代に伝えている。

原島家の始祖は武州大里郡原島村(現:熊谷市)の豪族だった。それが室町時代になって、原島丹次郎と丹三郎という兄弟が当地へやって来て、兄は現在の住所でいう奥多摩町日原、弟が同じく奥多摩町丹三郎一帯を開拓して勢力をもち、小田原北条氏の傘下となっていた。後に北条氏が没落してからは土着化し、以来その家系は現代に至るまで連綿と続いている。

当家は弟の丹三郎の家系であるが、ここで蕎麦屋を営んだのは平成14年の10月のこと。蕎麦打ちは飯能の蕎麦屋さんで20年以上修業した職人さんに任せることにした。

築二百余年は経っている古民家で蕎麦を啜るときは、昔風に「蕎麦切」と呼びたい。

お話:丹三郎屋敷の当主原島さん

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


そば処 桔梗家(練馬区田柄5-27-25)




敷地1,200坪の敷地に、「光が丘美術館」・そば処「桔梗家」・陶芸教室「飯綱山陶房」がある。そのうちの「桔梗家」はオーナーが平成7年に小川町の養蚕農家を移築した、築150年の古民家である。

屋根を見ると、櫓(出窓)が象徴的に三つならんでいる。蚕の飼育には1)清涼育と2)温暖育と、3)双方の長所を取り入れた清温育があるが、1)と3)の飼育法には櫓が必要である。その櫓も、一ツ櫓、二ツ櫓、三ツ櫓、半櫓、総櫓などの形態があるが、その景観は養蚕農家の特色でもある。

古い時代は、身分によって、職によって、家屋の形態が異なっていたことを想いながら、部屋に座し、蕎麦を啜るのも一興であろう。

絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


手打ちそば 車屋(八王子市越野3-10)




車家の店舗は、福島県只見町目黒家の、明治7年築造の見事な曲家だった。それがダム工事で失われるときいて、小川修さんは移築を決意した。昭和58年のことだった。

そして古民家再生が専門の降幡建築事務所に依頼して、昭和61年に太い栗の柱、高い天井・・・の会津古民家が八王子に蘇った。

店主の小川さんは優しい声で話される。「田舎のある人、ない人に関係なく、人は誰にでも田舎を愛する心や懐かしむ気持が残っていると思います。

古民家に来ていただいて、ホッされたり、あるいは『あ~、たまには母親に電話しようか』なとどと思っていただければ幸いと、こんな蕎麦屋を作りました」。小川さんは蕎聖片倉康雄の弟子である。だから教えにしたがって「食器は蕎麦の衣装」とされているが、さらには独自に「そのまた衣装が店(家)だ」という考えを実践されている。

お話:「車屋」店主小川修様
絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
協力:古民家蕎麦屋を愛する会


神田錦町更科(東京都千代田区神田錦町3-14)




明治20年、更科分店第一号として開店。

昭和2年に建てられた建物は町内の一ブロックすべてを占めていた。中庭もあり、高級料亭のような景観であったそうであるが、残念ながら太平洋戦争の空襲で焼失。そのとき「錦町更科」や「宮内庁御用達」の看板も燃えた。

現在の建物は昭和20年に建てられた。当時は更科系専門の大工がいたという。

お話:「錦町更科」四代目店主堀井市朗様
絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
参考:ほしひかる「暖簾めぐり 6」(『蕎麦春秋vol.19』
江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)
協力:『蕎麦春秋』誌・古民家蕎麦屋を愛する会






虎ノ門大坂屋砂場(東京都港区虎ノ門1-10-6)




当初は木造三階建、大正12年に建てられたもの。

平成19年に耐震工事(建築面積70平方メートル:木造二階建て)を行ったが、昔からの土壁、二階出窓の欄干、銅葺庇、雨樋、瓦葺は大事に守った。

平成23年文化庁より、「交差点の北西角地に位置する、木造二階建。角地にあわせたL字型を基本に隅を斜めに削る。切妻造桟瓦葺とし、隅には千鳥破風を飾る。外壁は下見板張で、小壁を漆喰で仕上げる。二階は座敷で開口部には欄干を出す。町のランドマークとして親しまれる。」として、「登録有形文化財」に指定された。

お話:「虎ノ門大坂屋砂場」五代目店主稲垣隆一様
絵:伊嶋みのる(江戸ソバリエ・ルシック、墨線画家)
参考:ほしひかる「暖簾めぐり12」(『蕎麦春秋vol.25』)
江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)
協力:『蕎麦春秋』誌・古民家蕎麦屋を愛する会

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